RZの思い出
古くはYDS1から、その後、DX、RDと発展してきたが、どれもがコーナーリングを主眼に置いた設計となっているのは、自明であろう。タンクのカラーリングも流れをイメージしている。
各地のロードレースで活躍した、TR、TZの直系となれば、コーナーリングが得意な血統を持つのもうなずけるはずである。TZは、発売直後からそのパフォーマンスを買われ、世界中で圧倒的に売れたレーサーである。ホンダの菱木哲哉さんも、「アメリカのレースでは、TRでは、まだどっこいであったが、TZが出始めたら絶望的であった。」と述べている。自身はCB750Four改である。(古い人は知っているだろうが、隅谷守男と組んでの鈴鹿の10耐の優勝者であり、現在はかなりの年配である。)
そのヤマハから、水冷、モノクロスサスを持ったRD350LCが発表になったのは79年のヨーロッパでのショーである。LCとは、リキッドクールド(水冷)のことである。DT125LCも同じ。名前こそ、RZとなり、数年前のロータリーエンジンを搭載したショーモデル(RZ201)と同一であるが、その流れるようなフォルムには、少年達を空想の世界にいざなう気品すらあった。
筆者は、水冷方式というのが最も気になっていた。
やはりハイパワーを定格で確保するには、冷却は燃焼温度の安定した水冷に到達するのかと一人合点していた。そのころでは、4サイクルではZ1300しか水冷は無かった。というよりやはり水冷方式というのが珍しかったと思う。商品性は高かったのである。
一部の高級車しか採用されていない冷却方式であり、ついにミドルクラスでラジェーターを装備した単車が発売になったのかという驚きもあった。ただし、サーモスタットが標準ではついていなかったので、極寒時にガムテープをラジェーターに貼ったRZは多数いたのは事実である。
翌年80年に、まずは250で国内発売が開始された。
驚きであったのが、アイドルでも意外と煙を吐くのである。もちろんKH250やら、GT380が煙を吐くのは知っていたが、RZも、加速時にはかなりの煙を吐きながら、ギュウイーンと走り去るのには驚いた。(ちなみに、煙をほとんど吐かないことで驚いたのは、84年にDT200Rを街中でみたときである。)
また、ピーキーなエンジン性格も驚きであった。現在のレベルでは、マイルドで、のどかなエンジンフィールであろうが、タコメーターの針が垂直になったころから、俄然パワーが発揮される性格にも驚いたものである。
各オートバイ雑誌にも、その卓越した性能は絶賛されており、しばらくこのオートバイを越える性能を持つ250は出ないのではないかと思われていた。
当時、ホンダはホークの250が主力モデルであった。勝負になるわけが無かった。単気筒のCB250RSもあったが、燃費では楽勝であったろうが、路上のほとんどの場面でRZの敵にはなりえなかった。カワサキのZ250FTも専用設計であったが、これも敵ではありえない。老体のKH250には「お疲れ様でした。」の感あり。スズキのRG250Eが唯一、対抗馬とも言えたが、設計年度の差で、パフォーメマンスの差は歴然としていた。
絞りぬいた軽量、圧倒的なハイパワー、深いバンク角、ソファのように沈み込むモノクロスサス、抜群に明るいコイトのハロゲンライト、流れる模様のキャストホイールとチューブレスタイヤ、前屈姿勢を可能にするポジションとステップ、どれもがうらやましくて仕方無かった。
街のあちこちでRZが走りまわり、そのうちチャンバーを交換した、レーシーな排気音のRZも出始めた。GT380やKH400の集合チャンバーなどとは全く違う意味合いであるので、ご理解いただきたい。
そのまた翌年にはさらなる強力版の350がリリースされたのである。よくある、ボアアップである。なお、この250の54mmスクエアは、いろいろの単車で使用されており、ハスラー125もそうである。これを2基並べてGT250、3基並べてGT380とした話は、あまりにも有名であるし、ハスラー250の70×64を2基並べたのがT500、3基並べたのがGT750であることも、忘れてはならない。350は64×54×2シリンダーである。これで347ccとなる。
MC誌のテストでは、筑波サーキットでは、750クラス(このときはCB750F、Z750FX-Ⅱ、GSX750E、XJ750E)を簡単に凌ぐ性能を発揮したことは驚異であった。
この350は、わずかな金額差で、金額差以上のパフォーマンスを入手できたのであるから実に売れたと思う。
チョイ乗りの記憶では、250と比較してやはり低速トルクが太っており、全域でストレスを感じることはおおむね、無かった。ステップをたたんでのキック、アイドルが完了して、ギアをローに入れてはじめて、オイルランプが消える設計も良心を感じさせるし、どことなく威厳さえあった。
タコメーター内の水温計の針が、動き出す前にアクセルをあおってみると、真っ黒のエンジンは、予想以上に大きくブルブルと震える。オーゴソナルマウント方式である。これは、エンジンの振動を堅牢なフレームで固定して防止するのではなく、震えるものは勝手に震えてよろしい。という固定方法である。その分、堅牢なフレームは不要となり、軽量化に役立つ訳である。
走り出して右手をワイドオープンすると、排気音の活気とともにロケットのような加速が楽しめた。このときの排気音がまた250とは違う、ドスの利いた音であった。リヤは懐かしのダンロップTT100の3.50-18であった。
もちろんコーナーでこのパワーを使い切ることなどできるわけなく、ただ素晴らしい加速に酔っていただけである。でも、ハイパーな単車に乗ることがこんなに面白くて楽しいとは、考えても見なかったし、思いもつかなかった。恐怖よりも快感のほうが勝っていた。この快感は、自身が大型自動二輪免許を取得して初めてCB750fourに乗ったときまで、また別の、なおいっそうの快感で塗り替えられるまで続いた。
オートバイ誌の計測では0-400mが13.10秒であったと記憶している。これが報道された中ではベストタイムであった気がする。並み居る750クラスでもなかなか出せないタイムであろうし、四輪相手では無敵である。250に350のエンジンを搭載したものやら、大阪の「ダイシン」からは、後方排気のRZまで現れた。このショップはやたら乾式クラッチを開発するので、記憶にある。
また、未熟なライダーによる痛ましい事故も全国で、実に多数発生した。
このRZの真骨頂は、「コストを懸念せざるを得ない市販車でも、厳しく追及すればここまでのポテンシャルを持った単車を発売できること」を他メーカーに教示したことである。このRZが業界を刺激して、ガンマやら、KRやら、NSやらのハイパー2スト250が出現するのであり、自身もTZR250に昇華するのである。
転倒したメンバのRZ350を修理する筆者。 鈴鹿サーキット、ピット内。 ’82年頃。
いやあ、まったく激しい競争でした。毎年のモデルチェンジの嵐。「俺のは、89モデル」という言い方が広まったのもこの頃であろう。
ホンダの社長と日本楽器の社長は実の兄弟であったというのに(→河島兄弟のことである。)、日本国中が兄弟ケンカの波紋を受けての激しいハイパー250の戦いに明け暮れていたのである。
河島喜好さん、すんません!
執筆 猫の顔
