限定解除の思い出
01 23, 2011Posted in限定解除
昭和50年10月1日に施行された自動二輪の中型免許の制定は、我ら当時中学生のチャリ小僧にとってはまさに青天の霹靂であった。
教習所で取得できる自動二輪免許は中型自動二輪までであり、これは排気量が400ccまでしか乗れない足かせをはめられた屈辱的な免許制度である。本来ならば、ナナハンでもハーレーでも何でも乗れる免許のはずが、いきなり排気量限定のしょぼい免許になり下がったのである。なお多くの教習所が、当該免許制度の施行前には、教習車両としてGT380やら、CB360T、RX350やらを使用しており、同じ試験車両で試験しても、今後は限定免許としか取得できないのであるから、その不公平感は、想像に余りあったのである。
ナナハンに乗るには、公安委員会の試験場で、実際にナナハンに乗って指定されたコースを走って試験され合格しなければならないのだが、その合格率たるや、数%と言われたものである。筆者の地元の某北陸の田舎町では、試験車両はボロボロのスズキGT750であり、事前審査では、CB750のK0(!!!)を使用するという物の価値が全く分かっていないお上の判断で、毎週の金曜日にのみ実施されるというものであった。
忘れもしない昭和57年5月13日金曜日に筆者は、試験場に向かったのである。
事前審査にて。
ナナハンに乗れる体力があるかどうかを判断するらしいが、これは「受験者を落とすための仕分け作業」であった。
まず空気の抜けた前後タイヤ、タンクには19リットル分の砂の入ったCB750K0(青)で、8の字を二周。これで腕がかなり疲労する。タイヤはキコキコと音をたて、きしむ音が、受験者の不公平感をさらに募らせた。そのあと、反対側に倒れたCB750を手前側から引き起こすという、実際にはありえない場面での引き起こしである。
理解しにくいだろうが、車両の左側に立ち、CBを右側に倒す。それを左側から引き起こすという理不尽極まる試験である。実際は前後のバンパーがあるので完全に転覆はしないのだが、これは非常に過酷な試験であった。
筆者は体格が良いので、左手を、空を向いているハンドルの左グリップに、右手をリヤバンパーの左側に掛けて、気合もろとも一気に引き起こすことができた。そのときのK0の固定式左ステップの先端が、筆者の左足の弁慶の泣き所にささり、今もその痕は残っている。かなりの痛さであったが、ここで落とされたらたまらないので、涼しい顔を装っていた。
最後にメインスタンド掛けを2回。
パンクしたナナハンでのメインスタンド掛けは実際にやってみると、その苛酷さがよくわかる。
この日の受験者は2人。筆者だけが事前審査をパスした。もう一人は、反対側車両の引き起こしを失敗して失格となった。
そのあと、実際の車両による試験。
スタートラインでの車両を見てたまげた。
スージーのGT750である。最初期型である。白バイ仕様のシングルシートが泣かせる。当然、オイルボトボトのエンピツマフラーである。ラジエーターの大きさが目に入った。
フロントフォークのブーツは破れ、漏れたフォークオイルがフォークを伝い、ダブルドラムブレーキのパネルを覆い、防錆を目的とするというナイスな仕様、メインスタンドはスプリングの疲労のために、半分しか上がらず、乗車前には右手で上に引き上げるという奥ゆかしい儀式が必要であった。
当然、落ちた。
しかも外周からスタート地点までの帰りの右コーナーで、マフラーが派手に接地し、試験官のN氏のお怒りをかった。昔読んだGTのバンク角の浅さを身をもって知った。サスのオイルが抜けている分、車体が沈んでおりバンク角が余計に浅くなっていたのである。
試験終了時に前述のN氏からは「危険行為をしたのだから以降の当試験場での受験は認めない!」というきついお叱りを受けたがその後、ひたすら謝って許してもらった。
しかし、その全く1年後の昭和58年の5月12日の金曜日に、N試験官から「よう走れていた。合格や!」のお言葉を実に15回目で、ちょうど1年後に頂いたのである。
このときは泣けたなあ。
受験料は1700円。15回かかったので、25500円なり。
試験車両は全受験とも、GT750。こんな思いをしたので、今後はもう乗る気にはなれないだろうなあとその時、ちょっと思った。過酷な受験で、「いやな思い出を持つ単車」ができたことが、少し悔しかった。でも現在は、GT750は最も乗ってみたい単車の1台である。
この後は居酒屋で、サンマの塩焼きの前で。ピース。
教習所で取得できる自動二輪免許は中型自動二輪までであり、これは排気量が400ccまでしか乗れない足かせをはめられた屈辱的な免許制度である。本来ならば、ナナハンでもハーレーでも何でも乗れる免許のはずが、いきなり排気量限定のしょぼい免許になり下がったのである。なお多くの教習所が、当該免許制度の施行前には、教習車両としてGT380やら、CB360T、RX350やらを使用しており、同じ試験車両で試験しても、今後は限定免許としか取得できないのであるから、その不公平感は、想像に余りあったのである。
ナナハンに乗るには、公安委員会の試験場で、実際にナナハンに乗って指定されたコースを走って試験され合格しなければならないのだが、その合格率たるや、数%と言われたものである。筆者の地元の某北陸の田舎町では、試験車両はボロボロのスズキGT750であり、事前審査では、CB750のK0(!!!)を使用するという物の価値が全く分かっていないお上の判断で、毎週の金曜日にのみ実施されるというものであった。
忘れもしない昭和57年5月13日金曜日に筆者は、試験場に向かったのである。
事前審査にて。
ナナハンに乗れる体力があるかどうかを判断するらしいが、これは「受験者を落とすための仕分け作業」であった。
まず空気の抜けた前後タイヤ、タンクには19リットル分の砂の入ったCB750K0(青)で、8の字を二周。これで腕がかなり疲労する。タイヤはキコキコと音をたて、きしむ音が、受験者の不公平感をさらに募らせた。そのあと、反対側に倒れたCB750を手前側から引き起こすという、実際にはありえない場面での引き起こしである。
理解しにくいだろうが、車両の左側に立ち、CBを右側に倒す。それを左側から引き起こすという理不尽極まる試験である。実際は前後のバンパーがあるので完全に転覆はしないのだが、これは非常に過酷な試験であった。
筆者は体格が良いので、左手を、空を向いているハンドルの左グリップに、右手をリヤバンパーの左側に掛けて、気合もろとも一気に引き起こすことができた。そのときのK0の固定式左ステップの先端が、筆者の左足の弁慶の泣き所にささり、今もその痕は残っている。かなりの痛さであったが、ここで落とされたらたまらないので、涼しい顔を装っていた。
最後にメインスタンド掛けを2回。
パンクしたナナハンでのメインスタンド掛けは実際にやってみると、その苛酷さがよくわかる。
この日の受験者は2人。筆者だけが事前審査をパスした。もう一人は、反対側車両の引き起こしを失敗して失格となった。
そのあと、実際の車両による試験。
スタートラインでの車両を見てたまげた。
スージーのGT750である。最初期型である。白バイ仕様のシングルシートが泣かせる。当然、オイルボトボトのエンピツマフラーである。ラジエーターの大きさが目に入った。
フロントフォークのブーツは破れ、漏れたフォークオイルがフォークを伝い、ダブルドラムブレーキのパネルを覆い、防錆を目的とするというナイスな仕様、メインスタンドはスプリングの疲労のために、半分しか上がらず、乗車前には右手で上に引き上げるという奥ゆかしい儀式が必要であった。
当然、落ちた。
しかも外周からスタート地点までの帰りの右コーナーで、マフラーが派手に接地し、試験官のN氏のお怒りをかった。昔読んだGTのバンク角の浅さを身をもって知った。サスのオイルが抜けている分、車体が沈んでおりバンク角が余計に浅くなっていたのである。
試験終了時に前述のN氏からは「危険行為をしたのだから以降の当試験場での受験は認めない!」というきついお叱りを受けたがその後、ひたすら謝って許してもらった。
しかし、その全く1年後の昭和58年の5月12日の金曜日に、N試験官から「よう走れていた。合格や!」のお言葉を実に15回目で、ちょうど1年後に頂いたのである。
このときは泣けたなあ。
受験料は1700円。15回かかったので、25500円なり。
試験車両は全受験とも、GT750。こんな思いをしたので、今後はもう乗る気にはなれないだろうなあとその時、ちょっと思った。過酷な受験で、「いやな思い出を持つ単車」ができたことが、少し悔しかった。でも現在は、GT750は最も乗ってみたい単車の1台である。
この後は居酒屋で、サンマの塩焼きの前で。ピース。
執筆 猫の顔

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