モトクロス狂時代
いや、あえて意識的にチャレンジをした訳でもなく、自然にそうさせたのであろう。
当時、250やら400を所有するに至った中免小僧たちは、次の刺激を求め、限定解除に挑戦すも者もいれば、一方では原点回帰なのか、原付や小型中間排気量をセカンドバイクとして所有するものも現れた。
みんなどこから探してきたの思い出せないが、XL50S、Dax70、CB50jxなどがそうであり、いわゆる、「こまいの」と言われた単車たちであった。断っておくが、この呼称はあくまでも我々の仲間内だけで通用する呼び方である。
これら、「こまいの」は中型オンロード車とは違って、河川の土手を下ったり登ったり、自らの手や体を使って楽しく遊べる事が当時の学生さん達の心をくすぐったのであった。筆者もXE75を友人から確か1万円で譲り受け、学内の移動やちょっとした買い物ばかりでなく、河原遊びや積雪の日でも果敢に走行を楽しんだものであった。
苦い経験もあった。今から考えれば1つの懐かしい思い出ではあるが、ある日XE75で学内の階段でトライアルの真似事のように上り下りを繰り返していたら、体育の先生に注意され、キーを一週間ばかり没収されたこともあったなぁ。単車の楽しみを知らない、あるいは理解できないとても不幸な先生ではあったが。。。
こんな遊びから、モトクロスもどきの草レースに熱中する時代が訪れる。
学内に放置された原付を回収し、レース用マシンに仕立て上げ、頻繁に草レースに参加したものであった。これに関しては是非、本ブログの、「九頭竜湖スキー場」を参照されたい。
さて、もちろん原付市販車改造(とは言っても保安部品を取り去っただけ)のマシンをレース場まで運ぶ必要が出てくるが、はたまた金の無い地方国立大学生たちは、どこからともなく格安トランポ、ホンダTN-Vを発掘してくるのである。
この空冷4サイクル2気筒 SOHCトランポには、夜間でもマシンの積み下ろしが安全にできるように、キャビン後方上部に、後ろ向きにフォグランプが2個取り付けられていた。もちろんこのフォグランプの点灯スイッチは運転席ダッシュボードに設置されていたが、マシンの積み下ろし時だけでなく、一生懸命に走る空冷TN-Vを後方からあおって来るアベックの乗った赤いファミリアに対する威嚇のためのパッシングにも活用されたのである。
学生さん達の向上心はとどまるところを知らず、OHC 49ccのマシンでは飽き足らずいよいよ我が愛好会にも本格的モトクロッサーの導入に至るのである。本格的、と言ってもどれだけレース走行されたかわからないような格安中古車ばかりではあったが、空冷KX80やYZ80、そして水冷KX80もラインナップされていた。
以下の写真は、山を所有するレース好きの田舎のおっちゃんが、ブルドーザで山を切り開き、モトクロスコースを開設して、若者達を集めてはレースを開催していた時のものである。
山の急斜面を切り開いただけあって、名前も「サバイバルモトクロスランド」であった。コースはスタート直後のテーブルトップを越えると、傾斜角度30度はあったかと思われるほどの上り急斜面が立ちはだかっていた。しかし、その急斜面をいとも簡単に、まさに、“弾ける様な“加速をしながら軽々と登っていく水冷2ストモトクロッサーの驚異的なパワーには痺れたものであった。
当時はマシンにお金をかけることも出来ず、2ストオイルもたぶん格安のホンダウルトラなんかを入れていたに違いない。ただ、レース場に漂う他車両が吐き出す、植物性カストロールの甘い香りには羨ましさを感じたなぁ。
現在でもたまに遭遇する、アルミチャンバーを装着した原付スクーターの走り去った後に漂うオイルの匂いは、当時のモトクロス熱狂時代を懐かしく想い出させるのである。
