スズキの変曲点その1
「2サイクルで最後まで勝負する。」
と、台頭著しいホンダのレースマシンに向けて苦汁を含んだ表情で語ったのは、時の社長「鈴木俊三氏」の言葉である。
当時ヨーロッパで盛んに行われていた2輪のレースで実績を挙げれば、当然国内での販売台数に影響するので、各社ともに苦心して作成したレース用マシンではるばるヨーロッパまで出向いて行ったのは1960年代の話である。当然常勝マシンはヨーロッパ勢であったが、次第にホンダが頭角を現し、大躍進を見せるのである。
スズキも「2サイクルの覇者」として軽量・コンパクトハイパワーの利点を生かしてホンダに挑むであるが、次第に劣勢となり、特にホンダが超小型のDOHC多気筒マシンに自信を持ち始めてからは、小型排気量カテゴリーのレースでは苦戦を強いられることになったのである。
博物館等で保存されている当時のマシンである「RK66」を改めてみると、実に細かく軽量化されているのが判るし、フロントブレーキはシングルカムのドラムである。当然50ccであるのにアルミリムである。前面投影面積を絞るために極端に細い車幅であり、ライダーの方が相対的に遥かに大柄に映るのである。タイヤの細いことを見ればこれで高速コーナーを回るのは操縦安定性の観点からかなりの恐怖心を伴っていたであろう。 超ピーキーな2サイクルエンジンでヨーロッパの高低のあるサーキットを走り回るのに必要な段数は、なんと12段変速である。
次第に小排気量カテゴリーレースは下火になり、70年前後からはレースの世界も大排気量に人気が移行するのであるが、この辺になると日本国産マシンの独壇場である。
4サイクルは当然ホンダのみ。他は2サイクルエンジンであり、むしろヤマハのTRが市販レーサーで発売になると「レースで勝てるのは2サイクルである。」との印象が濃くなっていくのである。
スズキはTR500やら、750を投入するが当然市販マシンの改造型である。この改造型を作成するのはそれほど困難ではなかったであろうと思われるのは2サイクルエンジンの覇者としての研究実績があったからであろう。
また、果敢にロータリーエンジンにも挑戦し、かのRE5を市販化したのは見事である。販売実績はさほど芳しいものではなかったが、あくまで4サイクル以外のエンジンで挑戦し続けていたのである。
そして、73年末のあのオイルショックである。
「燃料を食う。」、「オイルを食う」、「白煙が出る。」等の理由で窮地に立ったスズキは、いよいよ4サイクルへの挑戦を再開したのである。再開とは、「コレダ時代」には4サイクルモデルを販売したが、伸び悩んだ過去があったのである。
オイルショックの数年後の76年に登場するのは、かの「GS750」である。この主任設計者の一人が横内悦夫氏である。(この方は、以前はT500のテストもしていたらしい。)
氏の考えの堅いところが、いかにも「奇をてらっていない堅実な造り」でオートバイ」を造ったことにある。
5速変速機のギヤレシオはGT750で実績を積んだレシオを採用するという「ムダと冒険を一切しない」という堅実さである。これは先発のRE5でも同じであったらしい。もしかするとフロントのスプロケットも共通部品ではないかとさえ思うのである。
このGS750は、ヨシムラのおいちゃんが入院中にエンジン透視図を見てZ2よりも耐久性があると見抜いたとの逸話がある傑作エンジンであり、事実ヨシムラはカワサキからスズキに鞍替えするのであり、その後の大躍進はご存知の通りである。
わずか数年で2サイクルの覇者から4サイクルの強豪に変身したスズキは2サイクルでも4サイクルでも覇者となりえたのと言えるのはもう少し、耐久レースでのヨシムラマシンの活躍と市販車GSXシリーズでの実績が出る80年代まで待たなくてはならないが、冒頭での苦汁を含んだ発言からは大きな変曲点があったのである。
この変曲点後に、輝かしい歴史の始まりとなるのは、78年のスズカの8時間耐久レースでのヨシムラスズキとホンダRCBとの闘いである。この8時間耐久での話は、別の機会の語らいとするが、苦境から活路を見出し、成功したスズキという会社の我慢強さや開発エネルギーには畏敬の念を覚えるのである。
いつか、高速のパーキングでT500の左キックに目を見張る若いライダーを尻目に、スタートダッシュ時の白煙のおまけを。
ピース!
